「つ、疲れたわ……」
「つぐみさん、大丈夫ですか」
「ええ……菜乃花もお疲れ」
「いえ、私は別に……でもその、今の山下さん……」
「ええ、かなり記憶が混乱してたみたいね」
「そんな……山下さんが認知症……」
「明日お父さんに伝えておくわ。この前みたいに、一時のことだといいんだけど」
「……」
「菜乃花?」
「あ、いえ……すいません。私、何も出来なくて」
「何言ってるの。こんな現場に遭遇したの、初めてでしょ? 誰だって戸惑うわよ」
「でもその……直希さん、あんな自然に」
「そうね……直希の演技には本当、驚かされるわ」
「そう、ですよね……でも直希さん、山下さんの様子にも全然驚いてなかったみたいでしたよね」
「そんなことないわよ。直希も心の中じゃ、パニックになってたと思うわ」
「そうなんですか?」
「だと思うわよ。いつも普通に接していた入居者さんが、急にあんな風になるんだから。でも、今日は菜乃花もいてくれてよかったわ。こんなこと言ったら山下さんに悪いけど、いい経験になったと思う」
「あ、はい……でもこんなこと、本当にあるんですね」
「現場ではよくあることよ。でもね、菜乃花。どんな時にも言えることなんだけど、とにかく私たちは、冷静に対応しなくちゃいけないの。直希だってきっと、怖かったと思う。辛かったと思う。でもそれを見せずに、これまで培ってきた経験と、山下さんの情報を頭の中に総動員させて、ああして祐太郎さんを演じきったの」
「はい……すごいと思いました」
「どれだけ入居者さんの情報を持っているか。こういう時
「べっぴんさん?」「そう、べっぴんさん。かわいい女の子のことを、そう言うのよ」「かわいい女の子……つぐみちゃんみたいな子?」「ふふっ、そうね。つぐみちゃんはかわいいもんね」「うん。つぐみちゃんよりかわいい女の子、いないと思うよ」「あらあら、ふふっ……直希は本当、つぐみちゃんのことが大好きね」「うん、大好き。ねえ母さん、つぐみちゃんにべっぴんさんって言ったら、喜んでくれるかな」「そうね。つぐみちゃんもきっと、喜んでくれると思うよ」「じゃあ今度、つぐみちゃんに言ってあげる」「直希は本当、優しいね」 * * * 次の日。 保育園でつぐみの姿を見つけると、直希は一目散に駆け寄った。「つぐみちゃんつぐみちゃん。あのねあのね」「おはようナオちゃん。どうしたの?」「僕ね、つぐみちゃんに言いたいことがあるんだ」「私に? 何かな何かな。いいこと?」「うん。つぐみちゃんが喜ぶこと」「えー、早く言ってよナオちゃん」「うん。じゃあ言うから、ちゃんと聞いてね」「うん」 直希はつぐみの手を握り、顔をみつめた。「え……ナオちゃん、どうしたの? なんか恥ずかしいよ」「つぐみちゃん」「は……はい……」「つぐみちゃんは……べっぴんさんだね!」 満面の笑みを浮かべ、直希がそう言った。「……」 しかし、べっぴんさんと呼ばれたつぐみは、直希の予想に反し、驚いた表情で固まった。 そしてうなだれるようにうつむくと、小さな肩を震わせた。「馬鹿っ!」 言葉と同時に、直希の頬を張った。
「つ、疲れたわ……」「つぐみさん、大丈夫ですか」「ええ……菜乃花もお疲れ」「いえ、私は別に……でもその、今の山下さん……」「ええ、かなり記憶が混乱してたみたいね」「そんな……山下さんが認知症……」「明日お父さんに伝えておくわ。この前みたいに、一時のことだといいんだけど」「……」「菜乃花?」「あ、いえ……すいません。私、何も出来なくて」「何言ってるの。こんな現場に遭遇したの、初めてでしょ? 誰だって戸惑うわよ」「でもその……直希さん、あんな自然に」「そうね……直希の演技には本当、驚かされるわ」「そう、ですよね……でも直希さん、山下さんの様子にも全然驚いてなかったみたいでしたよね」「そんなことないわよ。直希も心の中じゃ、パニックになってたと思うわ」「そうなんですか?」「だと思うわよ。いつも普通に接していた入居者さんが、急にあんな風になるんだから。でも、今日は菜乃花もいてくれてよかったわ。こんなこと言ったら山下さんに悪いけど、いい経験になったと思う」「あ、はい……でもこんなこと、本当にあるんですね」「現場ではよくあることよ。でもね、菜乃花。どんな時にも言えることなんだけど、とにかく私たちは、冷静に対応しなくちゃいけないの。直希だってきっと、怖かったと思う。辛かったと思う。でもそれを見せずに、これまで培ってきた経験と、山下さんの情報を頭の中に総動員させて、ああして祐太郎さんを演じきったの」「はい……すごいと思いました」「どれだけ入居者さんの情報を持っているか。こういう時
「そう言えばあおい、今頃どうしてるかしら」「明日香さんと宴会中、なんじゃないかな」「温泉旅行、ですもんね」「しかしびっくりしたよな。明日香さん、温泉旅館のタダ券持って、この前のお詫びにどうですかって」「直希と行く気だったけどね」「つぐみはそう言うけど、それはないと思うぞ。だって俺には、ここの仕事があるんだから」「明日香さんだって、そんなことぐらい分かってるわよ。その上で誘ってきたのよ」「スーパーで、タダ券二枚もらったんだよな」「でも、直希さんに断られて」「あんな分かりやすいがっかり顔、中々見れないわよね」「それでみぞれちゃんとしずくちゃんが、あおいさんを誘って」「この前一緒に遊んでから、随分仲良くなったからね」「おかげで今日は、随分静かだったわ」「特に、その……食堂が……」「だね。一番元気に食べる子がいなかったんだから。入居者さんたちも、気のせいかちょっと寂しそうだったし」「気のせいなんかじゃないわよ。生田さんなんて、私に何回も聞いてきたんだから。あおいはいつ帰ってくるんだって」「生田さん……随分と変わりましたよね」「そうね。あおいのおかげかしら、ふふっ」 そう言って三人、顔を見合わせ笑った。 その時だった。「祐太郎さん!」 食堂に響き渡った声。 聞きなれない名前。 三人が声の方を見ると、そこには貴婦人、山下が立っていた。「え……山下さん?」「直希、祐太郎さんって言ったら、まさか」「ああ……亡くなった旦那さんだな」 直希が二人に目配せすると立ち上がり、山下に微笑んだ。「どう……したのかな、恵美子さん」「どうしたじゃありません
8月31日の夜。 直希とつぐみ、そして菜乃花が食堂に集まっていた。 明日から9月。 菜乃花の新学期に向けて、これからの仕事の割り振りを決める為のミーティングだった。「菜乃花ちゃんにとっては、高校生活最後の二学期。体育祭に文化祭と行事もあって、何より卒業後の進路を決める大切な時期だ。 あおい荘で働いてくれて、正直すごく助かってる。特にこの前、俺が倒れた時には本当、迷惑をかけてしまって」「そうね。そのことに関しては本当、菜乃花に感謝し続けて頂戴よ。勿論、私やあおいにもね」「分かってるって。あんまりいじめるなよ」「あ、でもその……直希さん、元気になられて、本当によかったです」「ありがとう。菜乃花ちゃんは優しいね」「あ、いえ……そんなこと……」「優しくなくて悪かったわね」「いやいや、その突っ込みは来ると思ってたけど、そういう意味じゃないから」「分かってるわよ、ふふっ」「菜乃花ちゃんにとってこれからの数年は、人生で一番大切な時期になる。仕事を手伝ってくれるのは本当に嬉しい。でも今はそれ以上に、これから自分がどうしていきたいのかを、しっかり考える時間を持ってほしいんだ」「はい。ありがとうございます」「菜乃花は将来の夢とか、あるのかしら」「夢……ですか」「ええ。大学に進学するのか、働こうと思ってるのか。専門学校という道もあるわね」「私は、その……頭もよくないし、無理して大学に行っても仕方ないかなって思ってます」「そうなの? 今からでも頑張ったら、まだまだ間に合うと思うけど。それに、大学は勉強だけじゃない。友達も出来ると思うし、新しい発見や出会いもあると思うわよ」「でも私、友達を作るのも苦手だし……大学に行っても、その……今より多くの人たち
「それからダーリン、みぞれやしずくとよく遊んでくれるようになって」「みぞれちゃんしずくちゃん、本当に可愛かったから。それに、こんな俺に懐いてくれたからね」「こんなって……駄目よ、ダーリン。自分のことを、そんな風に言っちゃ」「ごめんごめん」「あたしにとって、ダーリンの何もかもが新鮮だった。あの時の気持ちは、そう……初めて亮平に会った時にすごく似てた」「……」「自分の損得に関係なく、ダーリンはあたしに優しくしてくれた。そしてみぞれやしずくのことも、本当に可愛がってくれた。 前にも言ったけど、あたしは旦那が欲しいんじゃなかった。だってあたしの旦那は亮平だけだから。あたしが欲しかったのは、みぞれとしずくの父親になってくれる人だった。 でも、あたしに言い寄ってくる男たちはみんな、みぞれとしずくのことは、あたしのおまけみたいにしか見てなかった。勿論、優しくしてくれたよ。でもね、あたしとの繋がりであの子たちの父親になっても、あたしへの興味がなくなってしまえば、あの子たちへの思いも薄れていく。だからあたしは、あたしに言い寄ってくる男たちのこと、誰も信じられなかった。 でもダーリンは違った。ダーリンはあたしのことなんか眼中になくて、みぞれとしずくのことを心から愛してくれた。それに気付いた時には、もう手遅れだった。あたし、亮平以外の男なんて、絶対好きになんてならないと思ってた。なのにあたし、ダーリンのことを考えない日がなくなっていた」「明日香さん、それ誉めすぎ」「……それであたし、亮平のお墓に行ったの。あたし、好きな人が出来たみたいだって」「あ、いや、だから……」「そうしたら亮平、言ってくれたんだ。やっと好きになれる人が出来たのか、嬉しいぞって」「……」「それからはもう、あたしもブレーキ外しちゃったよ。来る日も来る日も、ダーリンにアタック!」「おー
「うーん、いい天気ねー」 海に向かい、明日香が大きく伸びをした。「明日香さん、ほんとにここでよかったの?」「いいの。あたしが好きな場所って言ったら、この海なんだから」 * * * 冬馬が帰った翌日。 明日香がつぐみたちに呼ばれ、何やら話をしていた。 部屋の掃除を終えた直希が戻ってくると、つぐみたちが不自然な笑顔を浮かべて待っていた。「なんだなんだ、みんな揃って悪い顔して。何かたくらんでるのかな」「いえいえ直希さん、何もたくらんでなんかいませんです」「あおいちゃん……その言い方、たくらんでますって言ってるようなものだからね」「ええっ? そうなんですか? 私、そんなに嘘、下手ですか」「うふふふっ、ちょっとあおいは黙ってようか」「……つぐみさん、ほっぺ痛い、痛いです……」「こらこらつぐみ、正直者のあおいちゃんに何してんだよ」「あおいにはこれぐらいで丁度いいのよ。この子の馬鹿正直さ、いつかトラブルになるんだから」「無茶苦茶な……それで? 何の悪だくみなんだ、つぐみ」「え? な、何言ってるのよ。わ、悪だくみなんて、してる訳ないでしょ」「……お前も嘘、大概だよな……じゃあ菜乃花ちゃん、菜乃花ちゃんは教えてくれるよね」 そう言った直希に、菜乃花は頬を赤らめてうつむいた。「あ、あのその……な、なんでも……ないですよ……」「まあまあダーリン、どうだっていいじゃん。それよりさ、つぐみんから買い物、頼まれたんだよね。悪いんだけどダーリン、付き合ってくれないかな」「買い物? ええ、それはいいんですけど……みぞれち